18歳になった久保建英、天才といわれる男の裏側に見えてくるのは挫折と努力。
令和元年 六月四日。久保建英選手が十八歳を迎えた。
この若さですでに、日本サッカーのトップオブトップであるJリーグでその才能を遺憾なく発揮。第14節までの試合で4得点3アシスト。試合中のチャンスクリエイト数も高く、首位を走るFC東京の中軸といって間違いない。
今月に開催されるコパアメリカにも日本代表として招集が決まっている。
開花した才能に限りは見えない。
いや、もしかしたらまだ花開いていない蕾でこの才能なのかもしれない。
サッカー好きならほとんどだれもが思うだろう。
久保建英は天才なのだ。と。
確かにその言葉なら、彼を形容するのはいかにも簡単だ。
しかし、その言葉が久保建英の本質だろうか?
今回は久保建英ファンの一個人として、彼の本質に迫ってみようと思う。
ワンダフルボーイ

今期Jリーグ、前年王者川崎フロンターレとの重要な開幕戦で、久保建英は堂々とスタメンを勝ち取った。その後、怪我での欠場と遠征帰りの2試合を除けばすべて頭から出場している。間違いなく不動のレギュラーである。
ひとたび試合に出場すれば魔法をかけたようなパスとシュートで大いに魅せ、彼のプレーに魅了される人が多くなるのと比例するように、TV、ラジオ、雑誌、YOUTUBEやブログなど、数多の媒体にも取り上げられるようになった。
そしてその勢いのまま、十七歳という若さで日本代表選出。まさに、ワンダフルボーイ。
十八歳という若さと、あどけなさも残るその顔立ち。彼は苦労一つなく日本サッカー界の山頂まで駆け上がってきた….のだと一瞬、錯覚する。
だが、それは事実ではない。
雨ニモマケズ

久保建英選手は選手生命で二回、試合に出れない日々を過ごしたことがある。
一回目はスペインで。
バルセロナが国際移籍で原則禁止されている18歳未満の外国人選手を獲得していたことが問題となり、同時に久保選手も公式戦に出場できなくなったのである。(当時久保選手はFCバルセロナ ユースに所属、出場できなかったのは13~14歳ごろ)
当時のことを久保選手はこう語っている
出典:「世界のどこであっても、必要とされる選手になりたい」久保建英が語る過去、現在、未来【前編】試合に出られないのに遠征について行って、チームメートは出ていて、当然、試合には勝っていくわけで。そういうのを見ると素直に喜べない自分もいました。
苦悩を感じさせる一文である。
ただ、この場合ピッチに立てなかったのは、久保選手自身の問題ではない。あくまで外的要因。雨のようにコントロールが不可能なものに巻き込まれて、試合に出れなくなったわけだ。
そして、そういったとき人にできることは多くはない。
雨が降りやむのを待つか、あるいはその場所を遠く離れるか。
しかして彼の決断は、その場を離れることであった。
帰国、そして

日本に帰国してからJ1、FC東京のトップチームに正式登録されるまではまさしく日の出の勢いだった。トップチームに上がるまでの経緯は、以下に箇条書きする。
- 2015年3月、FC東京U15に入団。
- 2016年、飛び級でFC東京U18に昇格。
- 2016年9月、FC東京のトップチームに二種登録される。(当時15歳)
- 2016年11月、j3に出場。Jリーグ史上最年少出場記録を更新。
- 2017年11月、FC東京とプロ契約。同月、J1第33節でJ1デビュー。
燦燦、赫赫とした経歴である。
当時から事あるごとにニュースで久保選手を追いかけていた筆者は
「あぁ、この勢いのまま、J1でも大活躍を見せるのだな」と、思っていた。
しかし結果として、破竹の勢いはここで止まる。
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